このCDは、私の友人だった中野幸代さんと長畑慶子さんへの想いと「生命のメッセージ展」に参加されるみなさんへの想いを込めて作りました。
私が「みつばちマナビィ」という曲を作るきっかけをくれた中野さんが病気でで亡くなりました。
いつも笑顔で元気いっぱいの人だったのに本当に信じられませんでした。
私たちのライブの時も「来たよ!」と何回も聞きに来てくれました。中野さんは家が私と近所で買い物などで会うと「榎本さ〜ん!」と手を振ってくれました。その元気いっぱいの笑顔が忘れられません。今もその声が聞こえてきそうです。
中野さんとの出会いは、数年前に応募して採用になった三重県主催の女性フェスティバルのイメージソング「花のように」を関係者だった中野さんが気に留めてくれたことでした。その後中野さんと私は生涯学習フェスティバル「まなびピア三重2000」の企画委員と事務局メンバーの関係となり、すっかり気心が知れた二人になりました。中野さんは、寸劇を私は歌を作ることになり、その時作った曲が「まなびピア三重2000」のイメージソング「みつばちマナビィ」でした。この曲に中野さんは振り付けをつけてくれ、私たちザ・サークルが演奏して歌って中野さんが子どもたちといっしょに踊ってくれたことが何度もありました。
ある日、私たちの住んでいる近くで小学生がトラックにはねられて亡くなるという交通事故が二度も続けて起きました。
中野さんは、そのことをとても悲しく思い交通安全の曲を作って、「榎本さん、レコーディングするから歌って!」と電話をかけてきました。そのレコーディングの日が中野さんに会えた最後の日でした。この曲は、私と子どもたちが掛合でラップのようなところがありました。中野さんは、スタジオの中で一生懸命子どもたちに発音やタイミングを指導していた姿が目に焼き付いています。その後、入院され一度退院はされましたが帰らぬ人となってしまいました。
長畑さんとは、音楽を通して知り合いになったのですが、昨年中野さんと同じ病気で亡くなってしまいました。宵々山コンサートの世話方であった長畑さんとは一年に一度か二度お会いするだけでしたがメールをもらったりして仲良くしていただきました。 「私は歩く歌詞カードやにザ・ナターシャセブンの曲とともやさんの曲やったら何でも聞いて!」と嬉しそうに笑っていたあの笑顔が忘れられません。マイハート☆さんから送ってもらった宵々山ひまわりの種を「Chiyokoさんと私と半分こな!」と言って送ってくれました。その手紙が最後の手紙になってしまいました。
二人が亡くなったことは悲しいですがいつも私の周りで私の歌を聞いていてくれる気がします。